身体には自分の知らない不調や病気を治す力が備わっています。
この力を発揮させるには、
第1に、「体の歪み」を正すことです。
第2に、「日本民族の食事」を実践することです。
第3に、「正しい運動法」を実践することです。
第4に、常に「感謝の気持ち」をもって生きることを身につけることです。
第5に、現代医療の実態を学ぶことです。
この条件を学びクリアーすれば、身体の不調や病気を克服することができます。 人間にとって、一番の不幸は知識がないということです。
髙橋健康指導センターでは健康を回復するノウハウを懇切丁寧に指導いたします。

センター代表の言葉 仙腸関節調整健康指導家 髙橋純一
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自然療法にたどり着くまでの道程

自然療法にたどり着くまでの道程

わたくしの幼少期

私は昭和24年生まれです。

私の母は私を生んだ2年後に「脊椎カリエス」という結核に侵されて、10年以上の闘病生活を経て死の淵から生還しました。

私を生んだときは既に体調が芳しくなかったことは推測できます。と云うのは、私が生まれた時の状況は「身体の皮膚は真っ黒で、カサカサの肌」であったことから、産婆さんが驚いて「この児は育たないかも知れません」と家族に話したそうです。

そのような状態でこの世に生を受けたのですから、健康児であるはずがありません。

幼い時から体調が良くなかった思い出は沢山ありますが、幼い時には虚弱な体質との認識は持っていませんでした。しかし、成長して行く過程で、友達と比して弱い体質と認識するようになりました。

母は病院に入院してしまい、私の記憶に母と遊んだ記憶はありません。当然です。幼い時母は家にいないのですから、病院に行っても結核病棟には子供は入れませんから、病棟の外の窓から看護婦さんが抱き上げてくれて母に対面した記憶は残っています。

子供心に病院に父と行く、バスや汽車に乗るのが嬉しかった記憶がありますが、3歳か4歳でしょう。

何年か経て家に帰ってきましたが、結核菌のため背骨の一部が溶けてしまったために、何年も寝たきりの状態でした。

幼い時は家でも母の近くには結核のため近寄れませんでした。

母が少し元気になり学校の参観日に来たのは、小学校6年生の時で昼食を一緒に食べた記憶が残っています。

母と遊んだことがない私は、母に云わせると「性格が偏ってしまい、どこかおかしな人間になってしまった」が、私が育てられなかったから仕方がないと云います。私が、親の言うことを聞かず、勉強は嫌いで遊んでばかりいたことを云っているのかと思いますが、実は体力がないので、静かにしている勉強は「イライラして落ち着かなくなる」ので、外で遊んでいたのです。

遊んでいると体を動かすのでイライラがなくなるからです。このような出自の私です。

苦しんだ各症状

私の不調を記しますと、幼い時は脱腸(そけいヘルニア)で脱腸帯をしていました。

また、夜尿症は小学校6年生までありました。体力がない証拠に、朝寝坊は体調が回復するまで続いていました。

朝から疲れているのです。

朝食が美味しいと思ったこと、学校給食が美味しいと思ったことは、高校生になるまでありませんでした。友達は給食を残さず食べるのに、私はほとんど残していました。また、胃腸が弱く下痢ばかりしていました。

腹痛も多くありましたが、学校で保健室に行く勇気もなく、ひたすら耐えていました。

ある時、水道の水を飲むと腹痛が消えることを発見して、痛くなると水を飲みました。なぜ痛みが消えたのでしょう。胃が荒れていて胃液(酸が強い)が分泌されると胃痛が起きたのです。水を飲むと胃液が薄まるので痛みが消えたのです。

 

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 顔に御出来がよくでき、浸出液が出てかさぶたが取れるまで気持ちが悪く困りました。

ビタミンの不足です。野菜、特に匂いの強い物は「鳥肌が立ち」食べられませんでしたから、仕方なかったのです。この御出来は中学生になったころからできなくなりました。野菜を少し食べる事が出来るようになったからです。

これらは「甘い物」特に白砂糖が原因です。

体力のない私は甘い菓子類を食べると元気になれることが体験として分かったのです。

しかし、甘い菓子類の過食は胃腸をだらけさせ、働きを低下させます。当然胃腸の粘膜も荒れますから、胃痛も起きますが、吐き気も起きます。このような胃腸では、食事も美味しいわけはありません。

また、胃下垂も起きますから、胃腸の働きを低下させ下痢をするのです。

悪循環が悪循環を生み、虚弱な体質を克服できなかったのです。

「ものもらい」もよくできました。これは免疫が低下している証拠です。甘い物が好きで、卵や肉、魚などの酸性食が多く、野菜嫌いが原因です。

 

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(眼帯が私、中2年)

野菜嫌いな私は、卵や肉、魚を食べる事が元気になれると38歳まで思っていました。

小学生の頃誰に言われたのかは忘れましたが「お前は痩せているな、家で何を食べているのだ。ロクなもの食べていないのだろう!」と云われたことがあります。

骨格も細く貧弱ですから云われても仕方ないことですが、言い返す勇気も腕力もなく、「しゅん」としていました。

 

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(中央が私小学校6年) 

 後年になり「こんな貧弱な俺を生んだのは母の責任だ」と云って、母を泣かせてしまった、荒れた時代もありました。

今思えば悪いことを云ってしまったと反省しています。

この世にどんな形であれ生を受けた事で「喜びも悲しみも楽しみも」味わうことが出来るのですから、生あることに感謝する生き方を悟りました。

 また、小学校4年生ぐらいからでしょうか、顎の筋肉の強張りを感じ、口を大きく開ける「癖」が始まりました。

2,3回大きく口を開けると顎が楽になるので、人に見られない様に下を向いて頻繁にやりました。

この癖は成人しても時折やっていました。

これは「顎関節症」と云われるものですが、骨盤の歪みが影響していますから、幼い時より腰が悪かった証拠です。

歩く姿勢も悪くて、高校の卒業式で先生に「お前の歩き方は変だ」と云われ治されました。

私は全く感じないのですが、他人が見たらおかしかったのでしょう。

(右側から高校入学式、中学3年、60歳ごろの写真)

後年、この世界に入って勉強する中で、自分の昔の写真を見ると顔が曲がっているのです。

 

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思い出せは「高校の卒業式、成人式」で、写真屋さんから 「そこの方、顔を少し右に傾けてください」と、云われました。 

私だけ言われて、恥ずかしかったので覚えているのです。これも骨盤の歪みから起きることですから腰の悪かった証拠です。脱腸も夜尿症も同じです。

また、後年発症した「ギックリ首」も、この首の曲りが状態をより悪くした原因でもありました。顎関節の悪かった原因も同じです。

「右に60歳ごろの写真は顔の傾斜が治っています」

顔が傾くのは骨盤が歪み、背骨が曲がるからです。ブログ等で私の記事を読まれると理解できます。

 

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 体力がないと気付いた出来事そして過信

私にとって体力がないと感じた最初の出来事は、中学1年の水泳大会です。普段は全く感じなかったのですが大会は全力ですから、25m泳いだ後プールから這い上がる力が残っていなくて、引っ張り上げてもらいましたが、脱力感で暫く動けなかった恥ずかしい思い出があります。

中学に入ってからは運動する機会が増えましたが、足首の捻挫ばかりして整骨院や医者によくかかるようになりました。

決定的に俺は体力がないと感じたのは、高校一年のマラソン(5キロ走)です。走った後「心臓の鼓動、ドキドキ」が収まらないのです。

一晩寝て起きて取れましたが、同じことが何回も続くので同級生に聞いてみました。すると誰もそんなことはないというのではありませんか。

私はその時「俺の身体は普通の人と違う」と感じたのです。

そして「慢性盲腸炎」にもなりましたが、薬で炎症を抑え手術はしませんでした。

そんな悶々とした中で人生論なども読みあさりました。

高校2年になり少しずつですが、食欲の細かった私も急激に食欲が出てきました。身体が成長期に入ってきたのです。

精神的にも高まりを感じて「こんな俺ではいけない」と危機感を持ち、高校2年の夏に野球部に入れてもらいました。

野球は幼い時より大好きでしたが、運動神経も鈍く「下手くそ」でしたから入る勇気はなかったのです。

しかし、体力を付けようと「マネージャー」でもやらせてもらえればと、監督に頼んで入れてもらいました。

監督は部員も少ないので練習にも参加させてもらいました。

下手くそでしたが一年間頑張りましたが、冬場のトレーニングで直ぐに右足脛骨の骨膜に炎症が起きて、痛みのため走ることが出来なく、2か月ほど整形外科に通いました。

「部員はなんて根性のない奴だ」と思ったそうですが、回復後頑張りました。

外野ノックで感が悪く全然捕球が出来なかった私ですが、三年生5月ごろから、感が働きだし捕球が出来るようになりました。その嬉しかった日の事は忘れられません。

そのとき思ったことは「下手でも努力すれば出来るんだ!」ということです。

この時から私は下手でもいい、失敗して恥ずかしい思いをしてもいい「努力すれば必ず花は開く」と、1つの信念を持ったのです。

 自殺願望の体質

卒業後、地元の役場に就職しました。

大人の社会に入り、神経質な私は気を使いすぎるのでしょう。胃腸の調子が常に悪く、母の知り合いの内科医に話すと「慢性盲腸」が影響しているかもしれないので「手術」してみたらどうかとアドバイスされ、秋になって手術をしました。

当時は一週間入院するのですが、退院後手術の効果は感じられませんでした。

全く無駄な手術をしたということです。

その当時役場では野球が盛んで、私も野球をやってきましたから重宝がられて投手をしていました。しかし、楽しみは長くは続きませんでした。21歳の春「ギックリ腰」になり整形外科に通いましたが、少し良くなっては、また再発を繰り返す慢性腰痛になり、右肩も壊してボールが投げられなくなり、投手はできなくなりました。

腰に常に違和感を持つ状態で、体調も芳しくない中、7月に入り父母が大阪万博で7日ほど家を留守にしたのです。

その間一人で家畜の世話、水田、野菜の灌水などをこなしたのです。

父母が帰ってきたと同時に、下痢が始まり止まらないのです。

そして脱力感から不眠におちいり、目が覚めると、妄想現象なのでしょう「頭の中で渦が巻き、天上が回り、時には、ガラスを爪でひっかく、嫌な音(キーキー)」が体中に響くのです。

尿意も異常でした。

トイレに行っても残尿感が残りスッキリしないのですが、どうすることもできず、トイレに行くことにも疲れ果て、居ても立っても居られない不快な状態に、体中に「鳥肌がたつ」ことが多くなりました。

そのような状態が起きると、布団の中で丸まって耐えるしかない苦しい日々が続き、次第に「自殺願望」が起き自殺未遂まで進みましたが、母に見つかり事なきを得たのです。

後年になりその原因が分かりましたが、当時はあちらこちらの病院を、重い体を引きずり必死に受診しましたが、原因は分かりませんでした。

胃薬を飲んでも効果はなくひたすら静養している中で、秋風が吹き始めたころから回復して職場復帰しましたが、3か月ほど休職しました。

何年後かの検診で「十二指腸潰瘍」の痕があると云われ、その当時「精神的ストレス」が強かったことから、潰瘍ができ胃腸の調子が悪かったことが分かりました。

また、職場のストレスが「不眠」を誘発して、妄想現象を起こしたのです。

しかし、慢性腰痛は良くなったり悪くなったりの繰り返しで、何件もの病院を回りましたが完治することはなく、更に何年後から首が回らなくなる「ギックリ首」が頻繁に発症して私を苦しめたのです。

 また多くの患者さんも訴えますが「肩甲骨」周辺に鋭い痛みが起きて、夜中に心臓が悪いのかと飛び起きたことが何回もあります。

この時も病院に行き「心電図」などの検査もしましたが、原因は分かりませんでした。ただ、整形外科で「肩甲骨」周辺の筋肉が少ないので、肩甲骨を「支えられないんじゃない!」と馬鹿にされた記憶が残っています。

また、足首の捻挫、足の冷えと火照り、下肢の脱力感、足指の霜焼け、水虫、そして枕でも苦労しました。色々試して最終的には「バスタオル」を丸めて、その時の状態で高さを変えて使用しました。

 私が「ギックリ首」や枕が合わない原因、また、顔の傾き、顎関節の異常は、実は小学4年生の時、友達と木登りをしていて、2メートルの高さから転落して背骨を強打したことから、上肢の椎骨に歪みがあるために、骨盤の歪みと相まって起きていた症状でした。ですから骨盤を正したことで発症しなくなったことはいうまでもありません。

「風邪ひき名人」とは役場の先輩が名付けた名称ですが、年間を通して引くことが多いのでそのように云われたのです。

昔は「富山の薬売り」の方が4名位来ていたと思いますが、各々の薬箱で、風邪薬と胃腸薬は1年経つと皆空っぽでした。

そのほとんどは私が使用したのです。

如何に不健康な身体であったかということです。

腰痛もしかり、風邪も体調不調も困ることは、常に付きまとっているということです。旅に出てもどこまでも離れることはありません。

子供を連れて海水浴に行ったことがありますが、その時海水浴場で「ギックリ首」になり、子供と遊ぶこともできなったことがあります。

出張先で「ギックリ腰」になり必死に会議を終えたこともありました。

素晴らしき師匠との出会い「五味雅吉先生」

33歳で役場を中途退職して、やってみたかった「飲食業」に転身しました。体調は悪いことは多くても、自分の一生は大切にしたかったのです。

高校3年の時得た「努力すれば必ず花開く」の信念に従ったのですが、自分で自営するエネルギーは並みのエネルギーではやっていけないことがよくわかりました。

当初は疲労から、入浴して体を擦ると体中が「内出血」を起こすほど、肌が荒れ、便秘にも苦しみました。

体力のない者にとっては「馬鹿な道を選んだ」と思うこともありましたが、始めた以上引き下がる気持ちにはなれず、精神力で頑張っていました。

38歳になり、仕事も少し落ち着いた状況になったころ、深夜のテレビ番組に、故「五味雅吉先生」が出演して「腰痛は骨盤内仙腸関節のズレが原因です」と話したのです。

番組の中でも「骨盤調整」の実演が行われ、先生が解説をしてくれました。私にとっては初めて聞く言葉です。

 

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(先生と一緒41歳)

整形外科、整骨院で治すことが出来なかった私は、腰痛も虚弱体質も諦めていました。この病気とは一生付き合っていくしかないと思っていたのです。

 しかし、五味先生の説得力のある説明に、私は腰痛の原理を知ったのです。ただ、薬や注射や電気治療でなく、骨盤のズレを正すという施術をしなければ治らないということが、腰痛を発症して17年目に知ったのです。

早速予約をして上京しました。

「君の身体は悪い。自律神経が失調しているから簡単には治らない」と云われたのです。しかし「信じて継続すれば必ず良くなるからね」とも言われました。

自律神経が失調しているとは、施術を受けた後、先生が「ジャンプ」してみなさいと云われたのです。

3回ほどジャンプした後「体が軽いだろう」と云われたのですが、私は軽いという感じがなかったので「首をかしげたのです」

神経が正常であれば、軽いと感じるのに感じなかったからですが、3か月後に正常になりました。

その後、毎週金曜日に上京して一泊二日、一日2回施術を受けました。

先生を信じ、この重い荷物を背負って生きることから脱出したかったのです。

3か月が経過したとき、今まであまり感じない腰の痛みを感じました。

ギックリ腰ではないのです。動けるのですが腰が凄く重く深い鈍痛なのです。

直ぐに上京しました。一回の施術で全く楽になったのです。

その楽という状態は、過去に味わったことがない感じなのです。

「嬉しかった」と云う言葉しかありません。

その時を境に腰が軽く、足が軽くなり、胸を張って颯爽と歩くことが出来るようになったのです。自律神経失調が改善されたのです。

施術が終わると体が「ふわっと軽い」感じがするようになったのです。

そして6ヵ月を境に、腰痛、ギックリ首が嘘のように起きなくなっただけでなく、諸々の体調不調が薄紙を剥ぐように消えて行ったのです。

「晴天の霹靂」です。

薬を飲み、薬を塗り、不要な手術もし、注射もどれほど打ったことでしょう。

腰痛、坐骨神経痛、脱調、顎関節症、胃弱胃痛、下痢、風邪、首痛、背中痛、十二指腸潰瘍、尿失禁、血尿、湿疹、かぶれ、捻挫、口内炎、慢性盲腸、麦粒腫、水虫、下肢の冷え性、霜焼、鼻血、難聴、うつ病(自殺願望)などなど、どれほど各種検査を受けたことでしょう。それらを西洋医学は何一つ解決することが出来なかったのですが、私の症状は腰を治す施術を受けることで消えたのです。

つまり、骨盤を的確に正す施術「骨盤調整法」を6か月受けたことで、身体全体の筋肉の強張りが解消され、体の歪みが解消されたことで、血液循環が旺盛になり、リンパ循環も回復し、身体が備えている、「免疫力」が回復したことから、活力がみなぎり諸々の不快な症状が消えて行ったのです。

近眼も改善して免許証の「眼鏡使用」も解除になりました。

38歳で、やっと人並みの身体になったのですが、私は貪欲なまでに、その後も体に良いと思うことは必ずやる信念をもったのです。

 食養の師匠「ベルトランド大高秀春先生」

そして10年後、故、大高秀春先生から食養(マクロビオティック)を指導され、人間にとって最も望ましい食事をするようになり、食べる食材から出来る「血液の質」が高まったことで、更に体調が向上し完璧に「重い荷物」を降ろすことができたのです。「努力すれば必ず花開く」信念を忘れないで実践した結果です。

 

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(2008年5月先生と断食3日目)            

私があまりにも虚弱体質であったことは、不幸ではありましたが、そのことで多くの掛替えのない教訓も学ぶ事が出来たことを思えば、無駄ではなく、病気を乗り越えるのに本当に大切な手当ては、自然な手当てが真理であることを悟らせてくれたからです。

また、虚弱体質であることから、恥ずかしい思い、悔しい思いも多くありましたが、自分を強くするための試練だと思い頑張ったことで、強い信念もできました。

その信念のお陰で、躊躇せず勇気が湧き、素晴らしい師匠と出会えることが出来たのです。

余談ですが、勉強会では絶えず疑問点を質問しました。

恥ずかしい思いをしても知らないことは、師匠に聞くことです。勇気が入ることですが、私は常に質問しました。

人生を開拓するのに右往左往していたら、運命は変わらないでしょう。

真に健康体に変身するためには勇気は必要です。

そして時間とお金もかかるでしょうが、薬は健康を保証してくれないことを「私は肝に銘じて」感じています。

一度だけの人生、病の恐怖から解放され、健康に関して今は、安寧の日々を過ごしながら己が会得した健康法を実践しています。

「信じる者は救われる」これは真理です。

☆正しい食事「食養」は、身体の強弱体質を改善して「免疫力」を高めてくれます。

「最強の食養講座」 https://shokuyo-koza.com/

                       髙橋健康指導センター  高橋純一